小笠原の歴史
威臨丸基地
小笠原開拓碑
戦跡
小笠原諸島発見
文禄2年(1593)年、信州深志(現在の長野県松本市)の城主であった小笠原長時の曾孫、小笠原貞頼が発見したと伝えられています。
最初の定住者
最初の定住は江戸時代の天保元年(1830年)になってからで、日本人ではなく欧米人5名とハワイ人15名でした。※1当時、欧米からやってきていた捕鯨船に、水・食料の供給をするために住み着いたといわれています。
彼らは、現在も小笠原諸島で暮らす欧米系住民の方々の祖先にあたります。
※1 彼らの中のリーダー的だったナサニエル・セーボレーの子孫は、現在も小笠原に健在です。
2015年にオープンした宿「PAT INN」はセーボレー家の6代目がオーナー。島の歴史を学べる「アイランドヒストリーツアー」も行っています。
小笠原の開拓
文久元年(1862年)、江戸幕府は外国奉行水野忠徳・小笠原島開拓御用小花作助らに命じ、威臨丸(軍艦)で佐々倉桐太郎ら官吏を派遣し、測量を行いました。※2その後、八丈島から38名を移住させ、江戸幕府による開拓がはじまりました。
しかし、日本本土での生麦事件等によって英国との関係が悪化し、わずか9ヵ月で移住人を撤退させました。
明治8年(1875年)になって、ようやく明治新政府が小笠原の領有に動き出し、
明治9年(1876年)に、小笠原の日本による統治を各国に通告し、国際的な承認を得ました。
同年に、扇浦に小笠原出張所を開設し、政府の手による開拓が本格的に開始されました。
大正時代にかけて、国の奨励もあって本土からの移民が増え続け、大正後期には人工が7,000人を超え、大いに発展しました。
※2 威臨丸に随行絵師として乗船した宮本元道が当時の小笠原をスケッチしています。
本格的な入植前の小笠原を描いた貴重な資料で、デジタル版を国立国会図書館HPで見ることができます。
国立国会図書館デジタルコレクション – 小笠原島真景圖. [1]
太平洋戦争と小笠原
昭和19年(1944年)、戦局の悪化により軍属等825名を除いた島民6,886名は本土へ強制疎開を命じられ、軍事一色に染まります。中でも、硫黄島は本土防衛の最前線となり、日米両軍合わせて28,721名の命が奪われました。
昭和20年(1945年)の敗戦後、小笠原諸島は米軍の占領下におかれ、23年後の昭和43年(1968年)に小笠原諸島は日本に返還され、
父島と母島の島民の帰島が許可されました。※
2018年は返還から50周年を迎えるメモリアルイヤーとなります。
※硫黄島は火山活動など自然条件が厳しいとの理由により一般島民は帰島できず、現在は自衛隊の基地が置かれています。
現在の小笠原
昭和54年(1979年)、村政が確立され、自然と共生する村をめざして村づくりが始まりました。観光地としての整備も行い、平成23年(2011年)には日本4番目のユネスコ世界自然遺産に登録されました。
写真提供:小笠原村観光局