富士山測候所
富士山頂・剣ヶ峰の一画にある要塞のような建物。これが富士山測候所で、日本の高層気象観測分野で大きな貢献を果たした施設です。2004年までは通年で職員が常駐して気象観測を行っていましたが、気象衛星の発達などにより役割を終え、現在は無人の気象観測が行われています。
通常は見学できる施設ではありませんが、ここは数多くのドラマの舞台となっています。背景を知れば富士山登頂の感慨もひとしおと思いますので、いくつかご紹介いたします。
明治の中頃、大日本気象学会員・野中到は天気予報の精度向上のため高層気象観測の必要性を感じ、私財を投じて富士山頂の気象観測所建設に奔走します。
1895年(明治28年)2月には下見のため富士山へ登頂。これが富士山における厳冬期初登頂記録です。夏には剣ヶ峰に約6坪の観測施設を建て※1、10月1日から12月22日まで観測を行いました。10月中旬には心配した千代子夫人も駆けつけ、観測を手伝います。
それでも過酷な環境での観測は困難をきわめ、12月には夫妻とも高山病と栄養失調で衰弱してしまいます。12月22日、中央気象台(現在の気象庁)からの救援隊によって野中夫妻が担ぎ降ろされるまで観測は続けられました。
当初の目標「越冬観測」こそ叶わなかったものの、こんな高地での冬期気象観測事例は当時世界初。その快挙と命がけの冒険は当時の人々に感銘を与え、現在に至るまで演劇・小説・TVドラマなどに幾度も取り上げられています。中でも有名なのが新田次郎の小説『芙蓉の人』。千代子夫人を主人公に、明治の夫婦愛と冒険心を描く傑作です。
※1 野中到が中央気象台に工事完成を連絡した8月30日は「富士山測候所記念日」とされています。
野中夫妻の観測後、富士山頂への気象観測所設立は国家的課題となりましたが、1932年(昭和7年)にようやく実現します。以後2004年(平成16年)の閉鎖まで約70年間、職員が約3週間交替で山頂勤務を行い、気象データが提供されました。
そんな過酷な環境で働いた歴代職員たちが残した記録が「かんてら日誌」。その抜粋版は『カンテラ日記』として1985年(昭和60年)に出版されています。
下界の灯りを眺める山頂生活、職員たちの仕事への誇り。戦時中の米軍機来襲や英旅客機墜落事故の目撃談といった世相を映す事件。ときおり現れるイノシシ、キツネ、カモシカといった山頂の珍客たち。観測機器の進歩に伴い職員の仕事も目視観測から観測器械のメンテナンスへと変わり、測候所内の環境が改善されていく様子も読み取れます。
30年以上も前の本ということで入手困難ですが、興味のある方は公共図書館などで探すとよいでしょう。なお、測候所の閉鎖後「かんてら日誌」原本44冊は御殿場基地事務所に移管されていましたが、残念なことに現在は所在不明となっているそうです※2。
※2 気象庁:富士山頂日誌不明 測候所で68年、台風も戦争も – 毎日新聞
そんな富士山測候所70年の歴史のなかでも、特筆すべきは1964年(昭和39年)の気象レーダー設置です。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風を受け、台風の正確な進路予報のために気象庁が立ち上げた一大プロジェクトでした。
本プロジェクトの模様を描いたのが、先述の新田次郎の小説『富士山頂』。新田次郎は気象庁在籍時、責任者として本プロジェクトに関わっています。彼は若い頃に測候所職員として富士山頂に通算400日滞在しており、なにかと富士山にゆかりの多い人物です。
大蔵省からのプロジェクト予算獲得、レーダー開発業者の選定。山頂の建設作業に使える期間は夏の数ヶ月のみという時間との戦い。薄い酸素のため高山病にかかる作業員が続出し、難航する作業。
そんな難工事の末、いよいよレーダーが山頂に設置される瞬間が小説のハイライトです。地上で組み上げた600kg超のレーダーがヘリコプターで吊り上げられ、乱気流が渦巻く山頂にみごと設置されます。
『富士山頂』は大きな反響を呼び、石原裕次郎主演で映画化されています。そのほか、近年ではNHKの人気番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』でも第1回目に取り上げられています。サブタイトルは「巨大台風から日本を守れ 富士山頂・男たちは命をかけた」。
富士山レーダーは1965年(昭和40年)に運用開始、富士山頂の象徴として登山者にも親しまれました。最大800kmの観測性能で台風予報に活躍しましたが、気象衛星の発達などを受けて1999年(平成11年)に引退。現在は富士吉田市の富士山レーダードーム館で展示されています。